やまもといそろく

 太平洋戦争が終わって六十三年、今や日米間の戦いは過去の歴史となり、多くの人の記憶から失われていると言って良いかも知れない。しかし、ここに一人、いまだにその名前を記憶されている提督がいる。海軍大将山本五十六である。しかし、山本の名が日本人の中になぜ消えない記憶として残っているのか、これを考えると、答えは簡単ではないような気がする。
 山本の経歴を見るとき、そこにはエリート海軍士官としての華やかさはあまり無いようも思える。兵学校卒業時の成績も十一番で、トップの堀悌吉、塩沢幸一などのエリートのように目だったものではない。條補生で軍艦日進に乗り組み、日露戦争に従軍し、日本海海戦中に左手の人差し指と中指を失っている。
 その後は比較的順調に青年士官としての勤務をこなし、大正三年(一九一四)に海軍大学を出ている。山本の能力が見え始めるのは、大正十三年霞ケ浦航空隊、副長兼教頭とな って着任してからかもしれない。
 元来砲術家を志望し、砲術学校を卒業していた山本にとって、航空隊の勤務の辞令がどのような気持ちで受け取られたかは分からないが、配置希望には「命のまま」と書くことを習慣としていた海軍士官にとって、素直な気持ちで着任したことは想像できるが、小さな挫折ではあったろう。しかし、山本はここで誕生して間もない海軍航空に目を開かれるのである。
 山本の世代は、中佐でワシントン条約による海軍軍縮と直面し、海軍の将来に不安を感じていた、当分新しい戦艦の建造はなく、艦隊の規模も制限されているのである。海軍士官に未来は無いと思われ、海軍兵学校の生徒募集数も極度に少なくなってしまった。こんな状況では、万一日米海軍が衝突したとき、必勝の信念を持つことは難しい。現実的な山本は、ここで水上艦隊の将来に見切りをつけたようである。
 ところが、おそらく張り切って着任した山本を待っていたのは、飛行機を知らぬ鉄砲屋が何しに来た、と言わんばかりの若手士官の空気だった。当時の海軍航空の世界は、いわゆる大艦巨砲主義の海軍内部では、全く重きを置かれない、変わり者の集まりのように見られていたために、航空関係者側も、その反発から、戦艦何するものぞと、やや排他的な空気を持っていたのである。
 中でも勢いのよさでは一目置かれていた三和義勇中尉など、戦術科長の松永寿雄少佐に、山本副長に「副長付には元気一杯の中尉級を、と所望されたので」と副長付を命ぜられると、即座に「甲板士官ナンテ真平御免」と抵抗したくらいである。困った松永少佐は「そんなら貴様、山本大佐の所へ行ってソウ言え」と突き放してしまった。ならば、と山本の前に行くと、元気者の三和が山本の迫力に圧倒されてしまい、一言も文句を言わないままに何と「懸命の努力を致します」と言って山本の前を下がったのである。以後三和は山本信奉者となるのである。山本の持つ雰囲気を良く伝える逸話であろう。
 山本がここで行った教育は、以後の海軍航空を見るとき、実に重要な方向を示したものであった。当時の航空界自体が発展途上といってよく、飛行機も漸く飛ぶようなレベルであった。従って訓練中の事故殉職が後を絶たず、海軍兵学校の卒業成績が良く、将来は大将と思っているような人間は、航空に志願するものは少なく、一種梁山泊的な別世界を形作っていたのである。
 山本はこれではいけないと思った。砲術、水雷などと自然に並ぶ、普通の航空でなければいけない。普通の部隊にしたのだ。また、当時初めて艦隊に編入された航空母艦鳳翔のパイロット選抜でも山本は自分の考えを通した。それまでは、空母のパイロットは天才的パイロットでなければ使い物にならないとされていた。三和など中クラスの練度のパイロットは、俺達では使い物にならんのか……と新鋭空母に乗れない不満を感じていたのだ。 山本は、「百人の搭乗員中幾人あるか知れぬような、天才的な人間で無ければ着艦出来ぬとすれば、帝国海軍にソンナ航空母艦は要らぬ。搭乗員の大多数が着艦出来るようにせねばならぬ」と主張して、選抜の中心を、技量中クラスのパイロットにしたのである。三和は感激した。まさに航空軍備の本質を見抜いたものであった。しかし、実際の航空の発達は遅々として、山本在職中に特に画期的な進歩を見ることは無かった。
 昭和五年(一九三〇)、山本はロンドン海軍軍縮会議の随員として渡英することになった。ワシントン条約は主力艦の制限であったので、今回は補助艦の制限交渉である。山本はここで、いよいよ海軍の未来の主流は、水上艦から航空機になることを確認したのだ。帰国後航空本部技術部長を勤め、海軍航空の基礎を固める努力をした。
 この後山本は航空母艦赤城艦長を経て、昭和八年に第一航空戦隊司令官となった、ワシントン、ロンドンの軍縮条約で艦隊兵力を制限された中で、航空兵力は削減対象になっていないために、その戦力の充実には期待が寄せられていた。山本は、徹底した訓練を要求した。夜間の発着艦訓練を積極的に行ったのも、この時期である。ある研究会で、山本は、「今、日米開戦となった場合を思うに、戦勝の端緒をどこに求めるか。大砲でも、水雷でもない、ここに搭乗員達が魚雷なり爆弾なりを抱いて、敵戦艦のしょうろうに体当たりを食わせるよりは遺憾ながら手は無いのだ。しか然もこの搭乗貞達は自分の命一下、ただ直ちにこのことを敢行してくれる事と確信する……」と発言し、会場を粛然とさせたことがある。無論精神論としての発言ではあるが、万一日米が衝突した博は、正攻法では勝機
の無い戦いになることを明らかに認識していたのであろう。

条約派VS艦隊派

 次いで昭和九年、ロンドン条約の更新を控えた予備交渉のために、今度は代表となって渡英した。しかし、この渡英は、山本にとって苦いものとなった。軍縮交渉といいながら、      日本海軍は既に昭和十一年以降の条約更新をする気は無く、山本に与えられた任務は、交渉を穏やかに決裂させることだったのである。このために海軍側は、山本に航空母艦の全 廃などという、誰が聞いても折り合いの付かない提案を出させたりしているのである。不実不毛な姿勢で向かう会議に、真剣に対応することを押し付けられた山本は、内心不快で あったに違いない。
 そんなところに、山本にとって驚くべき知らせが入る、同期の親友堀悌吉が、突然退役させられたのである。元来堀は昭和五年のロンドン条約当時軍務局長で、いわゆる条約派 である。ワシントンとロンドンでの軍備制限問題に承服しかねた海軍軍令部は、密かに部の権限強化を画策し、昭和八年、遂に軍令部条例を通過させて、兵力量の決定などに閲して、部外の容喚を封じたのである。同時に条約派の大幅な追放をしたのである。事実上日本海軍の破綻はここに始まったと見ても良い。
 これを知った山本は激怒した、日ごろ感情を表さない山本が「あいつら、よくも堀を首にしやがって」 といきり立ち、同時に「もう仕事をする気力もなくなった」 と洩らしたのである。山本の艦隊派に対する不信感と、海軍に対する挫折感は深かった。山本が 「巡洋艦戦隊の一隊と一人の堀悌吉と、海軍にとってどちらが大切なんだ」と言ったのも、この頃である。艦隊派グループに対する怒りは終生消えなかったと言われている。

海軍軍政の中枢へ

 昭和十年、山本は航空本部長になる。海軍の将来に不安を抱き、また自身も度々の挫折を味わいながらも、航空軍備の強化には全力を挙げることとなった。山本本部長時代の研究が昭和十二年に、一二試艦上戦闘機の開発となったといえなくも無い。この時期に開発が始まった飛行機こそが、太平洋戦争で主力となった飛行機だったのである。次々に現れる新鋭機は、山本を安心させたことであろう。
 航空本部のある海軍省には、軍艦建造のメッカ、海軍艦政本部がある。山本は時折顔を出しては、設計を進めている1号艦 (後の大和) の基本計画主任である福田啓二造船少将のそばに来て、「どうも水を差すようですまんがね、君達は一生懸命やっているが、いずれ近いうちに失業するぜ、これからは海軍も空軍が大事で大艦巨砲はいらなくなる……」などと冷やかしては悦に入っていたのである。
 昭和十一年暮れ、山本は海軍次官となった、山本は、おめでとうと言われると 「嬉しくもなんとも無い」と言って、ブスッとしていたらしい。山本の次官時代は文字通り激動の時期で、支那事変が始まるし、艦爆隊の誤爆でアメリカの砲艦バネーを撃沈したり、冷や汗の止まる間がないと言う状態だった。山本はアメリカとの関係を壊さないように、全力を挙げていた。
 興味深いことに、この年、海軍大学校の対米作戦の研究作業で、「開戦と同時にハワイ真珠湾を航空母艦によって奇襲攻撃するという案が検討されていた。この作戦研究は、当然ながら山本にも配布されたと考えるべきであり、この時点で山本の頭の中にはハワイ攻撃の可能性があったと考えてよいであろう。
 ちなみに、この案は、開戦前、敵主力艦艇、特に航空母艦が真珠湾に在泊する場合は、 敵の不意に乗じ、我が航空母艦航空機および大型ならびに中型飛行艇による奇襲をもって開戦するの用意あるを要す。……以下略この研究には、太平洋全域での作戦構想のほか、航空母艦を使用するアウトレンジ作戦に触れるなど、後の太平洋戦争の経過と比較するとき、興味が尽きない。
 昭和十四年になると、国際状況は更に悪化し、遂に陸軍親独派の推す日独伊三国同盟問題が持ち上がる、無論米内大臣、山本次官は、平沼首相を支えて、同盟を協定に留める努力をしていた。
 同盟は同盟国が戦争となった際には参戦義務が生じるが、協定ならば直接の参戦義務は無い。海軍内部でも「こんな同盟を結んだら、戦争になる」 と危機感を覚える人は少なくこばなかったが、同盟を拒む米内、山本は弱腰に見えて立場が悪かった。連日のように右翼が押しかけては、脅迫まがいの談判をするのである。当時山本は遺書を書き、ことさらに明るく振舞っていたと言う、既に覚悟が出来ていたのであろう。国家に殉ずる気はあるものの、理不尽な世の中に、山本は一種の挫折と失望を感じていたのではないだろうか。 あまりの身の危険に、米内はとうとう山本を八月、連合艦隊司令長官として艦隊に出した。軍人としては異質な政治の世界で苦汁をなめてきた山本は、すがすがしい顔で海軍省を後にしたと言う。知人に 「また帰ってくる (海軍大臣として) のではないですか」 と聞かれた山本は、言下に「もう、ここには帰ってこない」と言い残して和歌山県和歌之浦に向かい、連合艦隊旗艦長門に着任した。華々しい戦果と無残な敗北連合艦隊司令長官としての山本は、長門での生活を楽しんだ。艦隊指揮は海軍軍人の言わば頂点である。海軍士官にとって、海軍省勤めは、山本の言葉で言えば「高等小使い」 にすぎない。しかし、司令長官の任務の本質は、この高等小使いたちに使われることなのである。急速に緊張の高まる太平洋で、山本は後に引けないところまで来たことを感じていたのだろう。実際、間もなく、昭和十一年の海軍大学校の研究で示された「開戦前に、真珠湾を奇襲する……」案が具体的に可能であるかを検討し始めるのである。
また、幹部幕僚に対して、時として「君達、日本の兵隊は強いと思っているだろうが、実際は弱いのだよ」と言ってびっくりさせることがあった。山本は、「だから、君達が兵隊を強くしなければいけないのだ」と続けた。山本から見れば、事実上無に等しい中国海軍と、封鎖突破のジャンクを相手に、連戦連勝などと言うのは馬鹿らしいことに違いなかった。
 しかし、中国空軍は強かった。山本が手塩にかけて育てた貴重な中型攻撃機が、中国空軍の戦闘機の前に、惨憺たる被害を横み重ねていたのである。山本は心中、これを苦にしていたと思われる。海軍の将来は航空にあり、と常々主張してきた山本にとって、大きな挫折であったに違いない。

 そして昭和十六年十二月八日が来る。山本は軍令部の反対を無理に押し切って、無謀としか言いようの無いハワイ作戦を強行し、未曾有の戦果を上げた。次いでマレー沖では、英国の誇る新戦艦と巡洋戦艦を航空機のみで撃沈し、軍人としての山本の名声は頂点に達した。
 山本はこのとき、ハワイ作戦の成功の知らせには極めて冷静で、最初の言葉は「開戦の通告はキット奇襲の前には届くようにしてあるだろうな」であった。しかし、マレー沖の戦果を聞いた時は、ビールを賭けた参謀に、「10ダースでも50ダースでも出すよ」 と、相好を崩して喜んでいた。中型攻撃機による戦艦攻撃こそ、山本が多年構想していた、新しい海戦の姿だったからであろう。
 しかし、山本の強運もここまでだった。昭和十七年四月のドーリットル中佐の東京奇襲に端を発したミッドゥエー作戦は、これまた軍令部の強力な反対を押し切って実施されたが、無残な敗北を喫し、そのままガダルカナルの争奪をかけた、ソロモンの消耗戦に入り、起死回生の「い号」作戦を指揮するために、山本はトラックの旗艦武蔵から将旗をラバウルに進めた。これは現地で指揮をするためにと、山本が望んだように言われることが有るが、実際のところ山本は不本意であった。ラバウルで幕僚の一人に、「ニミッツはハワイで指揮しているのに、俺はなんでこんな所に居なければいけないのだ」と洩らしている。
 自身の考えている作戦指揮の構想との間には、深い溝が有ったのであろう。しかもガダルカナル争奪の戦いは失敗し、多くの部下を失った山本は、幕僚を連れての最前線視察で遂に戦死するのである。
 海軍士官としての山本五十六の生涯を見るとき、大きな成功に包まれているように見えるが、改めて見直すとき、それは皮相なものであることが分かる。砲術への望みは叶わず、与えられた初期の航空の発達は思うように進まず、ロンドン条約予備交渉では、心にも無い発言を強いられた。あまつさえ艦隊派のために親友堀悌吉を海軍から失い、海軍次官としては国のため、と思う気持ちが暗殺の危機さえ生んだのである。
 遂には、最も避けようと努力した日米戦争の引き金を引く役回りとされてしまったのである。しかも与えられた第一航空艦隊(機動部隊) の長官は、かつて堀悌吉を海軍から追放し、「あいつらよくも……」と山本を激怒させた艦隊派の大物、南雲忠一なのである。ハワイ作戦、ミッドウェー作戦と、艦隊派の牙城とも言える軍令部と徹底的に対立した山本、ハワイ作戦の成功の報告にも、事前通告の確認のみを聞いて、特に喜ばなかったと伝えられる山本。山本には複雑なものがあったと思われる。そしてソロモンの空に散ったとき、山本の心中はどのようなものであったのであろうか。
 山本五十六が今もなお、心を捉える何ものかを持つとすれば、一見して華やか経歴に隠れた多くの挫折と苦渋、そして、それらを無言で乗り越えながら歩んだ生涯に共鳴するところが有るからではないか、と思えるのである。